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2011年2月9日水曜日

安易な発想

人間と動物の大きな違いは何か?と問われたら、私は「欲求に忠実か否か?」であると答えるだろう。

動物のという生き物は、本来は自然(=野生)に生きる生物である。すなわち、自分がどのように生き抜き、次の世代に繋げるか?ということただ一つを目的とする生き物である。そのためには、自分とその周辺に生きるもの以外の命を奪い、食らい、自らの生を繋げるための糧とする。

人間の目には、そういう動物を「畜生」と言い表す。だが、これは決してそのような動物の姿に対する罵倒ではなく、むしろ「生きていくためには致し方なし」と捉えるのが普通だろう。でなければ、自分がやられてしまうのだから。

人間の社会において、こういう「やるかやられるか」という関係は希薄である。あるとしたら、それは我々の知る世界ではあるまい。

人間という生き物は、どこかで他人との接点を持っている。「自分ひとりで生きている」と勘違いする青二才は多少なりとも存在するのだが、自分の纏っている衣服、口にしている食物、住んでいる建物、何かしら自分以外の手が入っているわけである。自分で出来ないことを他人にしてもらうために、お金とサービスという産業が成り立っているのである。

話は逸れたが、人間社会において「自分の欲求に忠実に生きる」ということは、概して忌み嫌われる行為であろう。特に、大多数の人間が自分と同じ目的を持ち、同一の行動を取っているときに、自分だけがそれら集団から逸脱した行為を行い、周りの迷惑を鑑みないということは、まさに「畜生」のそれである。

人間は考えてナンボである。思考の中にこそ「人間性」は生まれる。だからこそ「安易な発想」は人間性を損傷してしまう。自分の行動が周りに対してどのような影響を及ぼすか?それこそが、自分の行動に「責任」を持つということではないのだろうか?

車を運転していると、いつも考え込んでしまう。偉そうではあるのだが、最近の人たちは考えて車を運転することが無くなった。制御工学を専攻している人には悪いのだが、上のような考えから、車のセミオートメーション化にはどうしても賛成する気にはなれない。

以上。

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