私と同じ、それより年上の方々の中には、この番組は強い印象をお持ちと方々もおありだろう。
ビジーフォー、清水アキラ、コロッケ、栗田貫一の、いわゆる「ものまね四天王」の繰り出すものまねの数々。今のバラエティなんかよりよっぽど面白かった。
その審査員も、強烈な個性を放つ面々ばかりであった。
10人目で9点を出す針すなお、2人で大爆笑するおすぎとピーコ、セクシーな女性が登場すると映される野口五郎、ヘッドフォンの片側だけで聴く所謂「ベテラン審査員ヘッドフォン」といえばうつみ宮土理…。
その中でももはや伝説と化している御仁と言えば「淡谷のり子」先生である。
我々の年代の人間にとってみれば、淡谷先生は「ものまねの審査員で、下品なものまねをする清水アキラに仏頂面を食らわせる人物」程度の認識しかない。
しかし、Wikipediaで清水アキラから辿っていって、淡谷先生のページを見ると…やや意外とも言えることが書いてあった。
・1907年、青森の豪商「大五阿波屋」の長女として生まれる。
大金持ちのご令嬢だったのですね。
・東洋音楽学校(後・東洋音楽大学、現・東京音楽大学)ピアノ科に入学する。後に荻野綾子に声楽の資質を見出されて声楽科に編入。オペラ歌手を目指すためクラシックの基礎を学んだ。
東京音楽大学と言えば…M市市民オーケストラの某T先生の出身校じゃないですか。ということは、T先生は淡谷先生の後輩ってことになりますな。
・リリー・レーマンの弟子である柴田稲子の指導を受け首席で卒業した。春に開催されたオール日本新人演奏会(読売新聞主宰)では母校を代表して「魔弾の射手」の「アガーテのアリア」を歌い「十年に一人のソプラノ」と絶賛される。
おもいっっっっきりクラシック出身のお方だったのですね。
おもいっっっっきりクラシック出身のお方だったのですね。
・戦時下で多くの慰問活動を行い「もんぺなんかはいて歌っても誰も喜ばない」「化粧やドレスは贅沢ではなく歌手にとっての戦闘服」という信念の元、その後の第二次世界大戦中には、禁止されていたパーマをかけ、ドレスに身を包み、死地に赴く兵士たちの心を慰めながら歌い送っていた。「英米人の捕虜がいる場面では日本兵に背をむけ、彼等に向かい敢えて英語で歌唱する」、「恋愛物を多く取り上げる」、といった行為の結果書かされた始末書は、数センチもの厚さに達したとのことである。
ここが一番カッコイイ。ロッカーじゃないすか、淡谷先生…。
ここが一番カッコイイ。ロッカーじゃないすか、淡谷先生…。
いやいや、すごい人だったんですね。
探せば動画とか、たくさん出てきそうなのだが…恐れ多いのでやめておこう。
探せば動画とか、たくさん出てきそうなのだが…恐れ多いのでやめておこう。
以上。
そうか~、若い人達は知らないのね。
返信削除子供の頃はただ「コワイ、キモイおばちゃん」だったけど、
歳を重ねるにつれ、彼女の歌は心に染み入って来てね。
晩年も衰えなくて、鍛えてるんだな~と。
自分にも他人にも厳しかったんでしょうね。
でも、本当に最後のほうはやっぱり…。
ドレス姿とあの風貌から出る青森弁が可愛らしくて。
音楽家として素晴らしい方でしたよ。
コメントありがとうございます。
返信削除手持ちにも、何の拍子にまぎれこんだのか、淡谷先生の歌う「別れのブルース」と「暗い日曜日」があります。
両方を比較すると、全く声域が違うんですよね。
「暗い日曜日」はシャンソンでソプラノ。
「別れのブルース」は昭和歌謡で、ご本人曰く「アルトでも高い」くらい。
「別れのブルース」を録音する前日は、嗜んだこともないタバコと酒で喉を潰して音域を無理矢理下げたとか。でも「別れのブルース」の音域って、すごい広いですよね。「港がー見えるー」の「る」で、真ん中のCの下のGで、「はかない恋よー」の「恋」で、真ん中から2オクターブ上のCの上のEsですからねぇ…約3オクターブ。ご本人にしてみれば、まだまだなんでしょうけども。
晩年の映像も、探すと出てきますね。
ご本人を気遣ってでしょうか、オケと合わなくなっていく歌に合わせて、オケが合わせるんですね。半拍間延びさせたりして。
さすがプロのオケ!と思いつつも、淡谷先生の心情を思うと辛いですね。ましてや、絶頂期をご存じのお方なら尚更のこと。
素晴らしいお方でした。
こういう日本の歌謡ジャイアントたちを、若い世代の人間はしっかりと知っていく必要があるのかも知れません。