電力使用量NOW

2011年6月21日火曜日

電力事情

日本は工業国である。

工業国ってことは、工場やオフィスがたくあんあるってことだ。

で、何かを生産するには「電気」が必要になる。

でも、その電気が使えなくなったら、その工場やオフィスはどうすればいいのだろう?

大規模なオフィスや工場は、たいてい自前の発電機を所有している。停電時にも生産ラインを停止しなくてもいいように。

そして、今回の電力事情である。

一部の人々からは、電力が逼迫するときには、それらの発電機を活用すればいいんじゃねぇか?という話が出た。

確かに、そのような発電機を活用すれば、電力の総量的には十分な量であろう。

しかし、だ。この話には大きな無理がある。

第一に、そのような発電機は、長時間の稼働を前提に作られていない。電力会社が保有する火力発電所であっても、定期的に発電機の点検がなされるため、複数の発電機を所有している。そもそも、半永久的に回しっぱなしでOK!なんてものではないのだ。結果、不安定な電力…ということになるだろう。

第二に、オフィスや工場で非常時に使用するのであれば、その近所や地下に発電機を設置するのが普通である。すなわち、近距離送電なのである。また、使用する電圧も単相または3相200Vや100Vに限られてくるだろうから、発電側もそれに合わせて作られているはずである。このような電力を送電線に乗せるとなると、まず「昇圧」が必要になる。つまり、200Vの電圧を一般送電用の電圧、最低でも66kV(66000V)へ電圧を上げる必要がある。

なぜ電圧を上げなければいけないのか?それは送電に伴う「電力損失」を最小限にするためである。

簡単な例として、今ここに「200V」の電圧を持つ「100A」の電流が、発電機によって生成されたとしよう。このとき、この電流による電力は、以下の簡単な式によって表される。

W=VI

つまり、電力というものは電圧と電流をかけたものである。よって、今発生した電流の場合は、

W=200x100=20000[W]

ということになるのである。

しかし、交流電流の特徴として、電圧の上下が容易に可能である、という点が挙げられる。その分、電流は犠牲になるのであるが、電圧を10倍にすると電流は10分の1、100倍なら100分の1である。

送電線には66000Vの電圧が乗っているという説明は前述の通りである。これに従うならば、電圧は660倍、電流は660分の1である。よって「66000V」の電圧ならば「0.151515151515152≒151.5mA」の電流である。ちなみに「m」は「1000分の1」を表す記号である。

ところで、オームの法則は「V=IR(電圧は電流かける抵抗)」であるから、このVをさきほどの式に代入すると、

W=R・I^2

この式がどういうことを表しているのか?抵抗が一定ならば、電流が小さければ小さいほど、送電に伴う電力損失が小さいと言うことである。この場合、抵抗というのは送電線の抵抗である。

つまり、電圧を660倍、電流を660分の1にすることによって、送電による電力損失は、

1)100Aの場合
I^2=100・100=10000

2)15.15μAの場合
I^2=151.5m・151.5m=0.022956841138659

どうだろう?100Aと比較すると、電力損失は約4356分の1になるということだ。

送電とは複雑な仕事である。電線をつないでハイオシマイ、ではないのだ。今の電力発生、送配電システムはまことに合理的に作られているのである。今すぐに「じゃあ、今日から太陽光と風力だけで行きます」というわけにはいかないのである。

第三に、そもそもそのような発電機は、化石燃料を使ったジェネレータである。だったら、初めから火力発電に頼った方が効率がいいし。わざわざ非常用の小さい発電機を使用する意味が分からない。

日本の電力事情は非常に複雑な仕組みで出来ている。一日二日でガラッと変えられるような簡単なものではないのである。だが、感情的に「あの国では太陽光が…」とか言いたくなるのが人情というもの。だが待って欲しい。根本的に産業が異なる国どうし、電力事情まで同じ土俵で比較していいのだろうか?日本は世界屈指の工業国であるという自負を持っているなら、観光国や工業を産業の根幹に持たない国と、電力の仕組みを単純比較するのは間違っていると思うのである。

だからといって、このまま化石燃料に依存し続けるのを良しとするのもまた間違いである。

ではどうすればいいのか?

変化は何事もゆっくりに行っていくべきであろう。一時の感情にまかせて無茶な約束や行動を取るのは愚の骨頂。クリーンな発電!と言えば聞こえはいいが、このクリーンな発電を生み出すための開発に伴う電力は?生産に伴う電力は?運用は?

何事も計画的に。感情論が罷り通らないのが理化学系分野であるのだから、一方的に感情を押しつけられても「無理」としか言いようがない。日本は工業国のくせに理系人間に対して非常に冷たい。武士道や義理・人情といった、半ば「感情論」を良しとするお国柄だからであろう。ただ、私はこのような感情論が悪いと言っているわけではない。むしろ、こんな時代だからこそ必要…と考えている。しかし、その感情論が罷り通る場合と通らない場合がある、その切り分けが必要なんじゃないのか?何でもかんでも機械的に「Yes/No」の2択でいいのか?いや、そうは思わない。では何でも「感情論」で処理していいのか?いや、そうも思わない。その線引きが極めて重要なのである。

感情的になりたい気持ちは分かるが、もう少し冷静に物事を眺めてみてはいかがだろうか?特に日本の中心にいる人たち…。こんなことだから日本は「現場が一番頑張っていて、トップは役立たず」なんて言われるんだよ。

以上。

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